『アーモンド四行詩』予言解読 その2

  H.G.ウェルズの「The Shape of Things to Come」は、ユダヤ世界の人々にだけ分かるように書いた、現代版の預言書かもしれない。

4.レビ族


The Blossoming Aaron's Rod (wiki)

 なぜウェルズの本は、「ナンバーズの秘儀」 (民の不平不満を神が鎮める方法) を現代に甦らせるのに、日本兵を使ったのだろうか?

 日本と古代ユダヤの関係は、諸説あるが、日本が成立した時代に、レビ族の末裔が渡来した痕跡がある。
【レビ族】・・・ヤコブの子レビを祖とするイスラエルの部族(氏族)の一つであり、主を嗣業としていた。レビはヤコブの12人の子供の1人であるが、祭司の一族として特別な役割を与えられ継承する土地を持たなかったため、レビ族はイスラエルの十二支族には数えない。聖書(民数記)においても、レビ族は「彼らはイスラエルの人々のうちに嗣業を与えられなかったため、イスラエルの人々のうちに数えられなかった者である。」と書かれている。・・・
 レビ族出身のモーセとアロンの指導の元で、イスラエル人は奴隷として扱われていたエジプトのゴシェンから脱出した。・・・荒野でレビ人は、アロンの監督の元で幕屋の奉仕、契約の箱の運搬、聖所での奉仕に従事した。会見の天幕の奉仕は、ゲルション諸氏族、ケハテ諸氏族、メラリ諸氏族の3つにわけてなされた。レビ族において、アロンの家系は名門として特別に扱われた。アロンの息子のエルアザルの家系から大祭司が世襲で輩出された。モーセの後継者ヨシュアの時に、パレスチナ地方を占領するが、レビ人は相続地を持たず、全国に居住の町を与えられて、住んだ。そして、レビ人はその奉仕の報酬として奉納物の十分の一が給付された。古代イスラエル王国が誕生すると、神殿が建設されて、レビ人の神殿礼拝は政治と結びつくようになる。その後、イスラエル王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してからも、レビ人はダビデ家に忠誠を尽くし、北イスラエルに序住していたレビ族は南ユダに移住し、南ユダ滅亡まで続いた。バビロン捕囚以降は、レビ族の立場が確立されていった。後に、ヘレニズムの時代はハスモン朝、ローマ帝国下にあってはヘロデ家の関係のもとに大祭司が任命されていった。紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落によるユダヤ滅亡以降に大祭司は任命されていない。(wiki

 『日本とユダヤのハーモニー』なるサイトによると、このレビ族は、鰐(バニ)族のことで、日本に渡来したという。

 ”今日の北九州八幡周辺に存在したと考えられる伊都国に拠点を持っていた鰐(バニ)族は、志賀島を拠点とし大海原を行き来した海人一族らと同様に、その背景にはイスラエル民族の内、祭司の役目を担ったレビ族が存在していたようです。鰐が生息することのない地域であるにも関わらず、八幡の西にある岡県の祖が「熊鰐」(ワニ)と呼ばれた理由も、その出自がイスラエルで祭司の務めを取り仕切っていたレビ族の民にあると考えられます。・・・日本列島に到来した南ユダ王国の民には、神殿にて仕えていたレビ族の子孫が数多く同行してきたに違いなく、その結果、短期間で各地にイスラエル系レビ族の拠点が増えていくことになります。”
 痕跡の一つ(?)であろうか、”契約の箱の運搬”を彷彿とさせる、神輿(みこし)。

神輿(wiki
  神輿の起源は、6~7世紀辺りまで遡ることができるが、詳しいことは分かっていない。飛鳥・奈良時代の頃だとすると、秦氏、徐福一行の頃に古代ユダヤ教も一緒に入ってきたのかもしれない。

 大切なことは、レビ族がアロンの末裔として、代々幕屋の奉仕をしてきたことと、”レビ族はイスラエルの十二支族には数えない” ことである。レビ族を同族とはみなさい。レビ族は「妬み」の対象であり続けた。 だから架空の日本兵は、無残な死に方をさせられたのかもしれない?

原爆のキノコ雲(wiki

(日本に落とされた二つの原爆は、明らかに実験であった。レビ族は、艱難にさらされ続けるのであろうか?)

 そして、民数記では、アロンは神の怒りを買い、約束の地へは入ることは許されなかった。
 20:1イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。そして民はカデシにとどまったが、ミリアムがそこで死んだので、彼女をそこに葬った。
 20:2そのころ会衆は水が得られなかったため、相集まってモーセとアロンに迫った。 20:3すなわち民はモーセと争って言った、「さきにわれわれの兄弟たちが主の前に死んだ時、われわれも死んでいたらよかったものを。 20:4なぜ、あなたがたは主の会衆をこの荒野に導いて、われわれと、われわれの家畜とを、ここで死なせようとするのですか。 20:5どうしてあなたがたはわれわれをエジプトから上らせて、この悪い所に導き入れたのですか。ここには種をまく所もなく、いちじくもなく、ぶどうもなく、ざくろもなく、また飲む水もありません」。 20:6そこでモーセとアロンは会衆の前を去り、会見の幕屋の入口へ行ってひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れ、 20:7主はモーセに言われた、 20:8「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。 20:9モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。 20:10モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。 20:11モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。 20:12そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。20:13これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。
 20:14さて、モーセはカデシからエドムの王に使者をつかわして言った、「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します、『あなたはわたしたちが遭遇したすべての患難をご存じです。 20:15わたしたちの先祖はエジプトに下って行って、わたしたちは年久しくエジプトに住んでいましたが、エジプトびとがわたしたちと、わたしたちの先祖を悩ましたので、 20:16わたしたちが主に呼ばわったとき、主はわたしたちの声を聞き、ひとりの天の使をつかわして、わたしたちをエジプトから導き出されました。わたしたちは今あなたの領地の端にあるカデシの町におります。 20:17どうぞ、わたしたちにあなたの国を通らせてください。わたしたちは畑もぶどう畑も通りません。また井戸の水も飲みません。ただ王の大路を通り、あなたの領地を過ぎるまでは右にも左にも曲りません』」。 20:18しかし、エドムはモーセに言った、「あなたはわたしの領地をとおってはなりません。さもないと、わたしはつるぎをもって出て、あなたに立ちむかうでしょう」。 20:19イスラエルの人々はエドムに言った、「わたしたちは大路を通ります。もしわたしたちとわたしたちの家畜とが、あなたの水を飲むことがあれば、その価を払います。わたしは徒歩で通るだけですから何事もないでしょう」。 20:20しかし、エドムは「あなたは通ることはなりません」と言って、多くの民と強い軍勢とを率い、出て、これに立ちむかってきた。 20:21このようにエドムはイスラエルに、その領地を通ることを拒んだので、イスラエルはエドムからほかに向かった。
 20:22こうしてイスラエルの人々の全会衆はカデシから進んでホル山に着いた。 20:23主はエドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンに言われた、 20:24「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエルの人々に与えた地に、はいることができない。これはメリバの水で、あなたがたがわたしの言葉にそむいたからである。 20:25あなたはアロンとその子エレアザルを連れてホル山に登り、 20:26アロンに衣服を脱がせて、それをその子エレアザルに着せなさい。アロンはそのところで死んで、その民に連なるであろう」。 20:27モーセは主が命じられたとおりにし、連れだって全会衆の目の前でホル山に登った。 20:28そしてモーセはアロンに衣服を脱がせ、それをその子エレアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。そしてモーセとエレアザルは山から下ったが、 20:29全会衆がアロンの死んだのを見たとき、イスラエルの全家は三十日の間アロンのために泣いた。

(*上記を読んでも、アロンが約束の地へ入ることができなかった真意(神意?)を測ることができない。別の記事で紹介したが、聖書には間違って伝えられた箇所もあり、専門家の数だけ解釈があって、難易度が高すぎる。)

  小説内の日本兵は、アロンが約束の地(カナンの地)へ入ることができなかったように、日本へ帰ることができなかった。 

アーモンドの花(wiki)

Almond blossom in the spring sunshine
Fuji-Yama gracious lady
Island treasure home of lovely things
Shall I never see you again?...  
アーモンドの花が咲き誇る 春の太陽の光の中に
富士山 優雅で美しく凛とした女性
宝の島 かわいい者達に満ちた家庭
僕はそれ等を もう決して見る事は出来ないのだろうか?

 だから小生は、最初、この四行詩を妄想して、以下のように作り変えてみた。
レビ族 アロンの末裔 契約の箱の守り手よ
約束の地へは 入ることはできない モーセやアロンと同じように
乳と蜜が流れるカナンの地へ
あなた方は もう決して辿りつくことはない
Yahweh (God) shows Moses the Promised Land (Frans Pourbus the Elder, c. 1565–80)

 ”僕はそれ等を もう決して見る事は出来ないのだろうか?”を、”あなた方はもう決して辿りつくことはない”と断定したのは、単なる勢いです( ´∀` )
 ”僕はそれ等を もう決して見る事は出来ないのだろうか?”
 しかし、この文言は、重く受け止めなければならない。なぜなら、このアーモンド四行詩が、吉岡氏が翻訳した1959年の時はダメで、五島氏の本が出版された2013年は問題にされなかった理由につながるからである。

映画『Things to Come』のポスター


5.キリスト VS 闇の霊 
  
 吉岡氏にお願いした人物は、
”決して悪い意図で言うのでは無い。あの詩があのままの形で訳されて日本に広まると、間違ってとられるリスクがある。だから日本の未来のため、世界の未来のために、あの詩の訳にはアーモンドという言葉を入れずに訳して欲しい。”
 と、”世界の未来のために” と言った。「世界」というからには、地球全体のことのはずである。「未来」とは、シュタイナーの言う、「エーテル界のキリスト」と、闇の霊に関連する、霊的な時代の移り変わりを踏まえているに違いない。

Rudolf Steiner (1860-1924)

 ”紀元前3101年に始まった暗黒時代は、すでに1899年に終わりました。この時以来、人間の科学にはまだ知られていないある能力が次第に発達しはじめています。20世紀において、人類の一部のなかで新しい魂の能力が次第に発達しています。たとえば、20世紀のうちに、人間のエーテル体を知覚することが可能になるでしょう。もうひとつの能力は、人間が自分の内面を見たとき、夢のなかでのように、自分がこれからおこなう行為のモデルを見る能力です。特別に素質のある人々は、もっとほかの体験もするでしょう。パウロがダマスコへの途上で体験したことが、多くの人々にとって普通の体験になるでしょう。
 そのようなことが20世紀に起こることの意味は、こうです。パウロは、パレスティナで起こったことをすべて知っていましたが、その事件はサウロをパウロに変えることはありませんでした。彼は、ナザレ人のなかにキリストが生きたとは納得できない魂の状態にありました。ダマスコでの出来事によって初めて、「キリストはここにいる」と、彼の霊視意識はいうことができたのです。
 20世紀にダマスコの事件を体験する人々は、キリストについての直接的な知を獲得し、キリストを認識するために文献に頼る必要がなくなります。今日、秘儀参入者のみが有している直接的な知を持つようになるのです。今日、秘儀参入の手段を用いて得られる能力が、将来、人類の普通の能力になります。この魂の状態、魂的な体験は神秘学において、「キリストの再来」と呼ばれています。キリストは肉体にふたたび受肉するのではありません。キリストは、ダマスコへの途上でパウロに現れたときと同じように、エーテル体のなかに現れます。
 人類が物質界に限定されていたとき、キリストは物質界に受肉しました。今日、私たちは、「おまえの能力が霊界に開くために、おまえたちの感覚を変化させよ」という、ヨハネ福音書の言葉を繰り返すことができます。
 人間はエーテル的霊視によって、エーテル体の中でキリストを見ることになるからです。この能力は、いま魂のなかに存在しています。将来、その能力は発達して、人間の運命はある意味において人間の手中にあるということができるようになります。この能力が現れたとき、この能力は何を意味するのかを知ることが必要になります。今日のように唯物論に退歩することは不可能になります。この能力が現れたとき、人々はすぐにはその能力に注意しません。それどころか、そのような能力を持っている人々は空想家で、病気だと見なされます。”

 ”人間の心魂が、しだいに別様になる時代が始まっています。しかし、多くの人々がそれに気がついていません。いま、私たちは新しい時代のなかに生きています。ここで始まるものは、ゆっくりと新しい心魂能力を人間に準備します。この新しい心魂能力の最初の兆候は、個々人の心魂のなかで、比較的すみやかに気づかれるでしょう。およそ、1930年から1940年のあいだです。1933年・1935年・1937年が、特に重要でしょう。特別の能力が自然な素質として、人間に現れてくるでしょう。地上にいる心魂、そして、もはや肉体のなかにいない心魂にも、変化が生じるでしょう。心魂は、どこにいるかに関わりなく、まったくあたらしい能力に向かって生きていきます。すべてが変化します。今日の最も重要な出来事は、人間の心魂能力の決定的な変化です。時が来たので、心魂から明視的な能力がおのずと芽吹き、発展していきます。エーテル的な知覚能力を、人間が獲得できるようになります。最初は、少数の人々がその能力を獲得できるようになります。ほかの人々は、そのあとを追います。この能力がますます発展するのには、2500年かかるからです。人間は、いままで知覚できなかったエーテル的なものを周囲に見る能力を有するようになるでしょう。いま、人間は物質的身体のみを見ています。しかし人間は、すくなくとも影のようなイメージでエーテル体を見ることができるようになり、非常に意味深い出来事をエーテル体のなかで体験できるようになります。
 ・・・
 いま、特別の修練なしにも、かすかな明視能力がふたたび発展することが可能になる時代が準備されています。1930~1950年ごろ、「人間の周囲に、明るい光のようなものが見える」という人々が現れます。注目すべき内容を含んだ夢のイメージのようなものが自分のまえに現れるのを見るようになる人々もいます。これらの人々が行為すると、なにかがイメージのように心魂のなかに現れます。そのイメージは、その人の行為の均衡が遅かれ早かれ取られるにちがいない、ということを示します。この能力の現れた人が、そのことを友人に語ると、友人はおそらく「君が見たものについて知っていた人々が、いつもいた。彼らはそれを〈人間のエーテル体〉と言い、彼らのまえに現れる夢のイメージのようなものを〈カルマ〉と呼んでいた」というでしょう。エーテル的な明視の時代が注意を払われずに通りすぎることのないように、精神科学が現れねばならなかったのです。エーテル的な明視の時代が、脳に結び付いた悟性による思考が支配した時代と交替します。”
空の青さの終端が地球エーテルの範囲、らしい。

 人間は、次第に地球のエーテル体となったキリストを見るようになる。人智学によれば、人間が最も完成したのはギリシャ・ラテン文化期(BC.747~AD1413)のことであり、現在は徐々に肉体とエーテル体のつながりが緩み、新たな霊視能力を獲得していく。

 しかし、闇の霊が、人間からキリストを遠ざけようとしている。

 ”現在私たちは、ルシファーやアーリマンとは別の存在たちが人間に忍び寄ってくる時代を迎えつつあります。このような存在たちは、私たちがこれから迎える人類の未来において、人類の進化の中にますます介入してくることになるでしょう。ルシファーの霊たちがレムリア時代に介入し、アーリマンの霊たちがアトランティスの時代に介入したのとまったく同じように、ある存在たちが少しずつ、私たちの時代においても介入してくることになるでしょう。・・・
 そして、まもなく到来する時代には、意識魂と、人間の自我と呼ばれているものの中に----なぜならこの頃には、自我は意識魂の中に埋没することになるからです----アスラと呼ばれている存在たちが忍び込んできます。アスラたちはアトランティス時代のサタン(アーリマン)の力やレムリア時代のルシファーの霊たちよりも、はるかに集中的な力を用いて悪を発達させることでしょう。
 ルシファーの霊たちは、自由の恵みとともに人間に悪を与えました。すべての人間はこのような悪を、地上での時間が経過する間に、完全に脱ぎ捨てることになるでしょう。また人間は、アーリマンの霊たちがもたらした悪を、カルマの法則が進行することによって脱ぎ捨てることになります。しかしアスラ的な力がもたらす悪は、このような方法で贖うことはできません。人間が悪の可能性を備えているにもかかわらず、なお高みに向かって進化することができるように、善き霊たちは人間に痛みと苦しみ、病気と死を与えました。また善き霊たちはアーリマンの力に対抗して、人間が犯した過ちを再び取り除くために、カルマの可能性を与えました。
 ところが人間が地球上に存在している間に、アスラの霊たちに対して対抗手段を講じることは、こういった場合ほど簡単ではないのです。なぜならアスラの霊たちは、かれらが捉えた人間の自我が----アスラたちは、人間の最も深い内的なもの、つまり自我と一体になった意識魂を捉えるのです----地球の感覚性と一体になるように作用するからです。そうなると人間の自我の一部が、少しずつもぎ取られていくことになります。そして、「アスラの霊たちがどれだけ意識魂の中にしっかりと入り込んでいるか」という度合いに応じて、人間は地球上にみずからの存在の幾つかの部分をあとに残さなくてはならなくなるのです。一度アスラの力のとりこになったものは、もはや取り返すすべもなく、そのまま失われてしまうことでしょう。「すべての人間がアスラの手中に陥る必要がある」というわけではありませんが、人間の精神のある部分がアスラの力によって切り取られることになるでしょう。
 私たちの時代においては、「いまを支配している単に感覚的なものの中で生き、あらゆる現実の霊的な存在や霊的な世界を忘却する精神」と呼ぶものの中に、アスラの力が予兆となって現れています。つまり私たちは、「現代では、アスラの力が人間を誘惑する方法は、ますます理論的なものになっている」と言うことができるわけです。
 現在、アスラの力はしばしば、「人間の自我とは、単に物質界が生み出したものにすぎない」ということを人間に信じ込ませようとしています。アスラの力は、ある種の理論的な唯物論へと人間を誘惑しようとしているのです。そしてアスラの力は、さらに長い時間の経過とともに----その予兆は、現在ますます地上へと降りてきている感覚性の荒廃した情熱に現れています----、霊的な存在や霊的な力に対して人間の目を曇らせていくことになるでしょう。すなわち、人間は霊的な世界について何も知ろうとしないようになるのです。人間は、「人間の最高の道徳的な理念とは、動物的な衝動がより高いレベルで形成されたものにすぎない」ということを、ますます教えるようになるでしょう。また人間は、「人間の思考とは、動物ですら備えているものが変化したものにすぎない」ということを、そして、「単に人間の姿が動物に類似しているだけではなく、人間のすべての本質は動物に派生する」ということを教えるようになるでしょう。それだけではありません。人間はこのような見解を実行に移し、そのように生きるようになるのです。 現在のところ、「人間の本質は動物から派生する」という言葉のとおりに生きている人間は、まだ一人もいません。しかし、このような世界観は確実に現れます。そしてその結果として人々は、このような世界観とともに動物のように生き、単なる動物的な衝動や情熱の中に沈み込んでいくことになるでしょう。そして、ここではこれ以上詳しくお話しする必要のない幾つもの現象の中に----つまり現在、特に大都市のさまざまな場所で、虚しい官能の荒廃した乱痴気騒ぎとして現れているものの中に----私たちは、私たちがアスラと呼んでいる霊たちのグロテスクな地獄の輝きを見るのです。
悪の秘儀
Eliphas Leviによる牛頭魔神。アーリマンの象徴と言われている。
 ”私たちは現在、第三の666の時代、すなわち1998年目前にしています。この世紀の終わりに私たちは、ソラトが再び進化の流れのなかからもっとも強く頭をもたげることになる時点に到達します。エーテル化したキリストが可視的になることによって、そのために必要な準備のできた人びとは、すでに20世紀の前半にキリストを見るようになります。しかしこの第三の666の時点において、ソラトは人びとがキリストを見るのを妨害することでしょう。つまり、いま(1924年)からわずか3分の2世紀が経過するだけで、ソラトが強大なやり方で頭をもたげるようになるのです。
・・・
 この世紀が過ぎさるまでに、ソラトは人間に憑依する存在となって無数の人びとのなかに出現することによって、その姿を現すでしょう。人びとは、とうてい本当の人間であるとは信じられないような人間が現れるのを見ることになるでしょう。このような人間は、独自の方法で外面的にも発達していくことでしょう。彼らは感情のなかに憤怒の特徴と破壊的な怒りをそなえながら、外面的には集中的で力強い性質の持ち主となることでしょう。彼らの顔には、外面的に、ある種の動物的な表情を見ることができるようになるでしょう。
・・・
 ソラト的な人間は、また、外面的にも識別できるようになります。彼らは恐るべき方法で、霊的な性質をそなえたあらゆるものを単に軽蔑するだけではなく、撲滅し、水たまりのなかに投げ捨てようとすることでしょう。たとえば人類全体の地球的進化のなかに組み入れられた、現在のボルシェヴィズムの萌芽という狭い空間に集中しているもののなかに、人びとはそれを体験することになるでしょう。”

 この、アスラだとかソラトだというのが、闇の霊として、人間の霊魂の進化を妨害しているのである。

 ”僕はそれ等をもう決して見る事は出来ないのだろうか?”
(エーテル界のキリストを認識することはできないのだろうか?)

 闇の霊が、人間を唯物論に縛り付けようとしている。

 現代に生きる我々は、(自覚があれば)唯物論が蔓延した世界に生きているということに、間違いはないであろう。闇の霊の勝利だろうか?

 上記のシュタイナーのはなしを整理する。
 ○20世紀初頭に、新たな心魂能力を手に入れはじめる。

 ○同時にこの頃から、新たな悪魔「アスラ」が現れ、人間を唯物論に縛り付ける。

 ○1998年頃、闇の霊「ソラト」によって、人間がエーテル化したキリストを見るのを妨げるようになる。

  これを、『The Shape of Things to Come』の構成と比較する。
 
1.Today and Tomorrow: The Age of Frustration Dawns
  1933年までの近代ヨーロッパについて。第一次世界大戦、国際連盟の失敗についてなど。

2.The Days After Tomorrow: The Age of Frustration
 1933~1960。 旧態教育への批判、日本の戦争参加など。アーモンド四行詩

3.The World Renaissance: The Birth of the Modern State
 1960~1978。理想的社会の実現へ、新たな革命など。

4.The Modern State Militant
 1978~2059。反乱、世界評議会など。

5.The Modern State in Control of Life
 2059~2106。英語の世界言語化、病気からの解放、80歳まで若々しくなる、精神の自由など。

 アーモンド四行詩があるのは、第二章の1933年から1960年までの「預言」中であった。つまり、人間を唯物論に縛り付ける悪霊「アスラ」 が活動を本格化した時期のことである。

 アーモンド四行詩が、吉岡氏が翻訳した1959年の時は文言を変えざるえなかったのは、この「アスラ」の活動が、まだ完了していなかったからではないだろうか? そして、五島氏の本が出版された2013年は問題にされなかったのは、アスラの活動が完了し、1998年を既に迎え、666の獣「ソラト」が、エーテル界にいるキリストを見れなくした後だったから、ではないだろうか?

 そうなると、ウェルズ(または氏に依頼したグループ)は、闇の霊の計画を、ユダヤ世界にだけ分かるように伝えたことになる。小説内での国際連盟への批判など、知識人として世界平和を希求してはいるのだが、闇の霊を「ユダヤの神」と信じ、それとは知らずに小説を書いたのかもしれない。 

 キリストではなく、ヤハウェでもなく・・・。

 そして、
”あの詩に手を出してはならん。特に日本人は手を出すな。”

 これまでの考察と、”特に日本人は”知らない方がいいと言った理由を考えると、どうしても、”永遠の未成年者の実験場は東方だ”と言った、ヒトラーの予言を取り上げなければならない。

第6の封印

 つづく
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『アーモンド四行詩』予言解読 その0 
『アーモンド四行詩』予言解読 その1
『アーモンド四行詩』予言解読 その2
『アーモンド四行詩』予言解読 その3
『アーモンド四行詩』予言解読 その4(終)


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