予防接種以後の人類へ その3:エーテル・電気・原子・思考
*初見の方はその1からお読みください。
エーテルについて説明していきます。
数百年前の人類は、エーテル体を看取できました。現代人は、エーテル視力を失う代わりに、不完全ながらも論理的思考力を獲得しています。
人間は思考するとアストラル体によって頭部のエーテル体がうごめきます。ギリシア神話に登場する髪が蛇になったメドゥーサは、頭部のエーテル体を表現したものです。
アストラル体によってエーテルが動かされると、神経シナプス間で電流が流れます。したがって、脳内のエーテル活動、つまり思考は、電気と関連していると言えます。
“原子は、4、5年前まで、オカルト科学を除くすべての外的な科学に誤解されていました。それは、空間における質量を持つ実質であると考えられていました。最近では、この物理学上の原子が、氷の塊が凍った水であるのと同じように、電気の力と同じ関係にあることが認識され始めています。水が凍って氷になると考えれば、その氷もまた水であり、同様に考えれば、物理学上の原子は凍った電気にほかなりません。<略>
この事実は、何千年ものあいだ、オカルティストたちに知られていたことです。そして今、原子が電気を凝縮したものであることに気づき始めています。しかし、もうひとつ、電気とは何かということを考えなければなりません。それはまだ知られていません。現代人は、電気の本当の性質はどこに求めるべきか、ということに無知なのです。この電気の性質は、外的な実験や観察によって発見されることはありません。しかし、いずれ発見されることになるその秘密とは、電気が、あるレベルから見ることを学んだとき、人間の思考とまったく同じものであるということです。人間の思考は電気と同じものなのです。一方は内側から観察され、もう一方は外側から観察されたものなのです。”
1904年
https://rsarchive.org/Lectures/GA093/English/RSP1985/19041216p01.html
神智学者のリードビーター(C.W.Leadbeater, 1854-1934)は、原子の時を止め、空間を超えて透視した成果を著作で発表しました。それによると、物質は個体・液体・気体に分別されるだけなく、気体より精妙な状態における「エーテル原子」の振る舞いが存在し、そのエーテル状態も精妙さによって数段階に区分することができ、いよいよ区分できない状態になると、そこにハート形の「究極原子」が存在する、というものでした。究極原子は、紐、波が幾重にも螺旋を描くように形作られていました。
究極原子(上)と電磁波モデル(下)(Occult Chemistryより) |
物質を細かく分解し、さらに分解して、波の世界に没入し、さらに波すらも分解していく…。このような捉え方は、正しいのでしょうか。結局のところ、人間の概念の及ぶ範囲のモデル図を描いているだけではないでしょうか。
どんな物質も光が濃縮したものです。物質を解消し、より精妙な状態を見ようとするならば、そこに神的なものを見ようと努めなければいけません。エーテルは物質に命を吹き込むので、生命的行為であり、神々の行為です。水は神々の諦念が、空気は神々の徳性が、熱は神々の供犠の至福が物質界に表現されたものです。物質を分解しても、結局のところ波としか表せないのは没生命的で、冷たく、エーテルの否定でしょう。現代人の一般的な思考様式では、物質と精神のあいだが捉えられないのです。
このように、物質を小さく分解していっても、そこに神的なものを看取しようとしない傾向を、唯物論、あるいは唯物主義(materiallism)と言います。この唯物論はヨーロッパ、とくに英米が発展させた現在の文化です。基本的に現代人は唯物論に侵されており、克服する課題が与えられています。人間には精神があるのに、精神を看取しようとしない傾向が現代は強く、ますます強くなっていきます。
今世紀の予防接種運動は唯物論がもたらしたものです。唯物論の概念のある社会は、それを幾分か警戒することができました。しかしその概念の弱い社会は、何の警戒心もなく予防接種を受け入れました。それが欧米よりも東アジア(モンゴロイド圏)で接種率が高くなった理由の一つです。
ですから、唯物論を克服することが急務なのです。物質と精神のあいだに、橋を架ける必要があるのです。
つづく